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制作のためのルーツと考察:(2)「音楽と美術、社会と文化」

◉オリエンタリズム著者:エドワード・サイードが遺したもの

エドワード・W・サイード(1935〜2003)はオリエンタリズムの著者であり、パレスチナ問題への発言、行動に情熱を傾けていた人でもありました。

フランスの哲学者:ミシェル・フーコー(構造主義)が表象の作用について言及していますが「Re=もう一度、Present=存在そのもの、Re Presentation=代弁、代表」再び存在させるということに着目しながら、サイードが考察、また問題定義をしているオリエンタリズムについて、考えてみたいと思います。

東洋は、近代学問においても西洋のものが先に在るため、かつては西洋側からしか書かれてきていませんでした。西洋という枠組みへの同化が基本とされ、中立なはずの学問体系にずれが生じていたのではないでしょうか。

原理主義、または根本主義という言葉は、キリスト教をも指し、イスラム教自体が原理そのものであるとの見解からも、最近ではあまり使われなくなっていますが、オリエンタリズム←→オクシデンタリズムのフレームワークの共通性と、あらかじめ存在している「西欧」という存在に併せようとしておこる違和感、矛盾点を「東洋としての日本」の環境が持っていることを、意識しておかなくてはいけないのではないでしょうか。

サイードは、キリスト教徒のイスラエル人としてエジプトのカイロで教育を受け、その後アメリカの大学で教授となることで階層(クラス)の移動を経験することになります。

かつてミッシェル・フーコーが「精神病は、時代の中で作られていく」ということを書いています。

それと対極にあるようで繋がっているのではないだろうかと考えることの一つに、「場」が在ること、「場」を作り出していくエネルギーを生み出すことの重要性、そして階層の横断が生む創造性の強度。
それぞれの国民の意識の平均値がどの辺りに存在しているのか?西欧の「チカラで制圧」しようとする集団としての意識とは?。



ピアニストであり指揮者でもあるユダヤ人のダニエル・バレンボイム(1942〜)と志半ばで他界してしまうサイードがパレスチナのラマラで、中東の若手音楽家とのコンサートを開催するまでを収録したドキュメンタリープロジェクトを観る機会がありました。

バレンボイムの指導を受けようと集った若者たちが徐々に政治にも踏み込んだ会話をするようになり、親同士が同じ戦場で敵同士で闘った者達が互いを理解していく過程、ドイツで参加した若者たちが強制収容所を見学し、互いの置かれた立場を理解し合おうという試みが積み重ねられていきます。いまだ続く迫害、政治的・軍事的にぶつかっている世界の状況、その時点でバレンボイムが提示した「変えていく為の芸術表現、または文化としての行動」という応え。

租借中ではありますが、これからも私なりに現代美術の表現を通じて、常に動き続ける社会状況と向き合い、表現の可視化への研磨を続けていきたいと考えながら、宗教からイスラーム、現在の西洋の矛盾点まで書きました。私自身は無宗教ではありますが、これからも少しずつ社会と文化を起点に理解を深めていこうと考えています。

先日、イスラエルを代表する現代アーティスト:シガリット・ランダウ「ウルの牡山羊」展をメゾンエルメス8階フォーラムで見てきました。

別のエルメスのものでデザインのお手伝いをしたものの確認もありましたが、作家のインタビューを読み、とても興味を持ちながら伺いました。

シガリット・ランダウ展から、痛みを伴った自国の歴史からの「希望」について造形表現、音と映像の効果、展示の仕方を真似るとしてではなく、表現の完成度に学ぶことが多くありました。

インタビューはこちらからご覧ください。

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